明治・大正・昭和前期の釣針製造

明治期の釣針業界
明治3年に彦兵衛は没したが、彼が播いだ釣針製造の芽は大きく成長した。すなわち育成した弟子たちも大きく成長し、それぞれに多くの弟子(職人)を養ったので、製造の裾野がしっかりと拡がったのである。それゆえ、、加東郡と多可郡を中心に、播州釣針の生産地としての基礎を固めることができたのである。


しかし、明治維新という急激な近代化の余波を受け幕末の慶応2年(1866年)には社地区が圧倒的に多かったが、明治期にはいると久米谷を除いてほとどんが廃業した。それに対して東条谷は7業者に過ぎなかったのが急に増加する。播州釣針の発祥地の一つとされる旧下東条村の池田を中心に、旧中東条村のほとんど旧上東条村の一部まで拡がり、東条谷が播州釣針製造の中心となるのである。しかし、製造の工程は彦兵衛の頃とほとんど変わらず、明治40年頃までは1本ずつヤスリで摺りこむまったくの手仕事であり、一人が造る1日の量はわずか1000本程度であった。この遅々とした作業能率にあきたらなかったあせりが機械化へのきっかけとなる。

技術革新

この時期で留意すべきことは、「錫鍍金法」の開発である。鉄針に錫を鍍金したもの「銀掛針」の完成、ときに明治15年のことである。強いてはこれが播州釣針の位置を不動のものとし、大正期に入ると、銀掛専門の鍍金工場が出現する。
  またテグス付釣針を考案したのもこの頃である。
  明治40年頃から大正初期にかけては、急速な機械化により大量生産の時代に移り変わろうとした。明治42年には「藤原式イケ起機」の発明により、1人1日10,000本以上の製造が可能となった。ついで明治45年には、「釣針用尖頭機」や「形曲機」の開発により、1人1日30,000本の製造と近代化が進んだ。
  大正から昭和のはじめは、製造工程の機械化が進み播州釣針の充実期といえる。機械の改良が進み、昭和22年の「藤原式尻付機」の完成で、全工程を一貫して機械化、1日15万本の尻付が可能になったという。

一方、大正10年には、馬の尻尾の毛や麻糸・木綿糸などを使っていた「糸」に代わり、「人造テグス」の製造技術が導入された。昭和28年より現在のナイロンテグスとなり、釣具業界に大革命をもたらせた。
第一次世界大戦前後に組合組織を導入、資材の確保や生産の合理化、販売の協定などで体制作りを試みた。


しかし、続く戦争での資材不足は深刻極まりなく生産量はますます低下した。また、昭和20年小寺家の子孫の最後の子息が戦死、名誉ある小寺家の名跡をも絶えさせた。

釣針の販売と家庭内職

彦兵衛が苦心して作りあげた製造・販売の組織は、幕末頃には既に崩壊していた。「釣屋は一匹狼やから……」という古老の言葉のように、三木や小野に見られる産元問屋的なものはあまり育たなかったようである。したがって近世頃は行商人に委託したり業者自身が販売を開拓し売りさばいていたらしい。

大正5年、第一次世界大戦の影響で神戸の商社より注文が舞い込んだことが輸出(海外進出)のきっかけとなる。時の注文は銀色メッキ釣針10種、数量1箱10種類取り合わせ40万本入りを15箱と記されている。

当時の釣針製造における家庭内職の占める割合は大きかった。かつて手作業の頃は、尖頭から成型・イケ起こしなどほとんどは下請的内職に依存していた。しかし、製造の機械化とともに仕上げの手作業の分野のみ限定されるようになった。いわゆる糸結び、仕掛加工、包装の工程である。この内職も昭和40年代頃までは、東条町を中心とした近郊市町で多数の家庭的内職によって産地が形成されていた。しかしながら、50年代の終わり頃からこの工程の自動化、機械化が急速に進み、また、加工賃の急騰に耐えかねた業者が海外に工場を移し、手作業分野を発展途上国に求めたため、現在では家庭内職は一部の特殊なものを除いてほとんどなくなってしまっている。